いつかのカマキリ

吹っ飛ばされたカマキリはその後生きていたのか。

就労継続支援を受ける #0

わたしは躁鬱の主婦。躁鬱は4年目、主婦は1年目である。

最近はめっきり波も落ち着いて、服薬も続けながら日々主婦業をじわじわ営んでいる。

主婦業といっても、朝お弁当と水筒を作って夫を見送り、掃除しながら洗濯、買い物に行って夕飯を作るくらいの誰でもできる業務である。

世の中のスーパー主婦のみなさんには頭が上がらない。

 

はじめのころは夫を送り出してから寝たきりになってばかりだったが、最近は少し日中に余裕がでてきた。

日中、とくに9時~17時頃までめちゃくちゃ暇に感じるようになってきた。

図書館に行ったり、冒険しにまだ見ぬ土地へ散歩に行ったり、たまに寝たきりになったりしている。

 

脳内もスッキリしてきたのか、ぼーっとして気づけば夕方になっていた、という謎の時間軸から、徐々に解放されつつある。

まだ日によってツイートの90字以上くらいの文字が読めなかったり、逆に本が読めたりするくらいには波はあるが。

 

そんなわけで、もう一生働けんと思っていたわたしが、日中の時間をもっと有意義に、もっといえば建設的なことに使いたいと思うようになってきた。

かかりつけの医師に話してみると、週一くらいのバイトからはじめてみたら?

ワンチャン、いや、ツーチャンあるで!

とのことだった。

 

ここで湧き上がる思い。

某イレブンでバイトしたい!!!!

わたしは学生時代、某セブンで2~3年くらいバイトしていた。

ほかにやりたいバイトがあったので辞めてしまったが、ほかを経験したからこそわかる。

コンビニバイト、楽しかった。

誰でもできる業務なので、当たりのきつい客に当たらない限り苦しいことがない。

わたしは常に動いていたいタイプなので、コンビニのせかせかとした客の流れなどが結構好きだ。

また働くなら、某ブンがいい。

そう思った。

 

ツーチャンもあると医師が言ってたぞと、夫に意気揚々と相談すると、

最初は波があるのにコイツ大丈夫か?みたいな姿勢だった。

まあそうだよな、突然言われても困るよな…と思って、あまり話題にも出なくなったが、次第に「頑張りたい気持ちがあるなら応援したい」と言ってくれるようになった。

週一の日雇いバイトでもいいし、一人暮らしのときにしていた作業所(訓練施設)通いでもいいと思う、と。

 

とりあえずいまのわたしを見て、週1からはじめてみたらどうか?という提案に、わたしは乗ることにした。

責任あるバイトを突然週3ではじめて結局欠勤続き、クビになる、みたいな未来も微かに見える。

週1でも許される日雇い/訓練施設で、まずリズムを整えてからバイトに移行して行く方が確実な道だと思った。

 

一人暮らしのときも、実は作業所(訓練施設)に通っていた。

そのときは今よりも心の波が激しく、遅刻早退欠勤が目立ち、ガタガタだった。

作業所は優しかったが、外に出られず予定通りに通えないのが本当に辛かった。

今だったら、あのときより落ち着いた現在のわたしなら、目標がある今なら、少しはマシに通えるんじゃないか。

そんな希望が湧いてきた。

 

作業所に通って、通えることがわかって、リズムが整ったら、某コンビニバイトに応募してみたい。

まずはそんな目標で、やっていくことにした。

 

となれば、やることは決まっている。

作業所探しと、市役所への申請だ。

 

今日は福祉事務所に行って、事業所リストをもらってきた。

いくつか通えそうな距離にある作業所をピックアップして、電話番号をまとめた。

ついでに市役所に行って、作業所に通うための申請書類一式を受け取る。

 

あたらしいことを始める時の不安も襲ってくるが、大丈夫だと自分にいいきかせて、ひとつひとつ丁寧にやっていくつもりだ。

 

⬇️まとめてみたヨ 参考にする方がいるか分からんけど

 

f:id:ringringnara:20230823140909j:image

選択肢

結婚してもうすぐ二ヶ月が経つ。

穏やかに日々は過ぎ、精神面もかなり落ち着いた日々を過ごしている。

一人暮らししていた頃をふいに思い出すことがある。

たしか毎日が生きるか死ぬかの二択だった。

夫と付き合うまで、私の人生もうとっくに終わっていたと思っていたから、寿命が来るまでの消化試合だったし、もう無理になったらいつでも終わらせればいい。

そう思っていた。

消化試合だったので貯金もしていなかった。

それがいきなり、二人で生きていきますってことになるんだから人生何が起こるかわからない。

 

初めて一緒に住もう、という話題が上がったのは、夫と付き合ってまだ日が浅かった頃。5月頃だったと思う。

新宿のIKEAで春日が破壊した伝説の椅子にお試しで座りながら話した。

その頃私は夫と結婚するなんて1ミリも考えていなかった。

寿命を全うするまでの消化試合の中で、たまたま一緒に居合わせた、くらいの存在でいてほしかった。

これまでの恋愛では相手に寄りかかってしまってうまくいかなくなってきたから、たまたま一緒にいる、くらいの寄りかかり方で、程々に付き合っていこうと思っていた。

話していない秘密もたくさんあったし。

まあ付き合った時点で責任を持つべきではあったと思うから、そこは今では反省すべきであるのだが。

 

だから一緒に住むというのも絵空事に近かった。

いつかそんな日が来るのかしら、みたいな。

よくある口先だけの未来の話。

遠距離を続けていくための、架空のゴール。

けど、夫は違った。

 

めちゃくちゃ具体的に、何月頃から大阪に引っ越してくるのがいいか、真剣に考えていた。

私はそんな夫をみて、かなり焦った。

これは一時の感情じゃないぞ、絵空事じゃねえぞと、IKEAで感じることになるとは思いもよらなかった。

 

具体的に何月から引越しをしようか、という話になった辺りで非常に焦った。

この人は本気で私と生活していく気だ。

私は一年準備してもまだ人と一緒に住むなんて不可能、と思っていて、実際ただ生きているだけだったから、せめて人並みに生活することができるようになってからだろと、思ってやまなかった。

客観的に自分を見たら誰もが言っただろう。

そこで話し合って提案したのが、2023年1月頃からという案だった。

 

それから私の日々は、消化試合ではなくなった。

明確な目標ができたことで、努力する意義ができた。

 

その間に隠していた秘密がばれたり、幻滅されることも何度か起こった。

毎回覚悟したが、夫は見捨てなかった。

見捨てられなさすぎて、逆になんで?と疑問だった。今も疑問だ。

 

紆余曲折あって、2023年1月を予定していた引っ越しは2022年9月末に変更になった。

できることはなんでもやったけれど、やっぱり理想とはかけ離れた状態での同棲開始になった。

 

全然目標には辿り着かなかったが、安定して落ち着くまでそう時間はかからなかった。

10月には大体落ち着いて、生活リズムも少しずつ改善されてきた。

それでもやっぱり、ふと生きるか死ぬかの二択が現れることはある。

でも、夫のためにもここで死ぬわけにはいかない、と、夫の存在がいい意味で抑止力になって、どっこい生きている。

どんなに無様でも、受け止めてくれる存在がいると思えば、生きていてもいいかなと思えるようになった。

 

生活は黙っていても過ぎていくが、やるべきことをやっていく方が生活は充実するんだな、と実感した。

解像度が上がったからか、最近になって、選択肢が増えたように思う。

生きるか死ぬかの二択じゃない。これは自分の中で大きな進歩だと思う。

変わらない生活、変わりゆく日々

季節は移り変わり、上着が手放せない日々からトレーナー1枚で外出できるようになった。

桜が満開を迎えたらしいが、桜並木が近所にないので実際のところあまり満開がどうとか実感できていない。

厳しい冬を超えてようやく春がきた。

 

大阪に引っ越して来て初めての冬がやっと終わりをむかえた。

 

毎年冬になるとメンタル崩しがちで引きこもり、布団から起き上がれない日々だったけれど、今シーズンはまあまあな感じでやり過ごすことができた。

必要な買い物にも行けているし、なんだかんだ外出もしている。

 

それもこれも、人と一緒に住んでいるからだと思う。

ADHDっぽい私は人目がないとまず動けない。

小さい頃から、友達が遊びに来るとわかってから片付け始めてなんとか見栄えのする部屋に整える、という付け焼き刃式お片づけで難を凌いできたタイプだった。

それは一人暮らしをするようになっても変わらず、引きこもりになって家に人が来なくなってからはエスカレートし、片付けのかの字もないほどとっ散らかっていた。

 

そんな部屋に暮らしていながら、一人暮らしはもう何年もしてきているし、と、慣れたものだと思っていた。

しかし実際は、セルフネグレクトのオンパレードで、生活としては成り立っていなかったようだ。

 

よく考えてみれば、洗濯物は着る服がなくなってから仕方なくするものだったし、食器も必要な分だけ洗って他の食器は延々とシンクに溜まっていく一方だった。

自分が生活をしていく上で必要な行動が取れないことをセルフネグレクトという。

その言葉を何年も前から知っていて、自分に当てはまるなあと思いながらも、改善することができなかったのは、人目がなかったからである。

 

実際に一人暮らし時代、洗濯物を溜め込みまくって夫にコインランドリーまで大量の衣服を運んでもらったこともある。

思い出話でよくその時の話をするが、夫には頭が上がらない。

 

夫は洗濯物に関しては「そろそろ…」と言ってくれるので、同棲を始めてからは今のところ溜め込まずになんとか回せている。

食器は朝まとめて洗うようにしているため、今はあまり溜まっていない。

私がくたばってる時は夫が代わりにやってくれることもある。

 

私は、同棲してから人が変わったのか?否。

そんなにすぐには変われないものである。

 

夫が出張に行くと元通りの生活をしてしまう。

これまで月一回くらいずつ出張に行っている夫だが、帰ってくる日に合わせて洗濯機を回すことが多い。洗い物の配信で30分くらい食器を洗い続けているのはそのためである。

本当は、洗濯物も食器も溜めずに洗ってしまうのが楽だと分かっている。

分かっていることとやれることは別物である。

 

行動の先に人がいないと私は行動できない。

私の中では、人目が気になる、の対義語として、人目がなかったら何もできない、だ。

なんならお風呂に入ることもやめてしまう時もある。でも外に出るから、夫に嫌な思いをさせたくないから入る。

洗濯も、掃除も、洗い物も、夫の生活の質を下げたくないがためにやっていると言っても過言ではない。

 

自分にはネグレクトしてしまう。自分のためには動けないが、ひとのためならなんとか動ける。

そんななので、子どもを持つのが怖いと思うことが多い。

親は子どもを同一視してしまうという。

自分のための家事をしてあげられない私が、自分の子どものためにも何もしてあげられなかったら?

子どもを持ってからでは遅い。この自分をなんとかしなければ。

 

生活は変わらずやっていくしかない。

自分のことは変えていかなければ。

春が終わるくらいには何か光明見えているといいんだけれど。

 

何か思いついたらまた書きます。

 

=======================================

セルフネグレクトから脱出できた方はいませんか。

いらっしゃいましたら方法などお伺いしたいです。

ぜひメールください。

nininishiki⭐︎gmail.com(@を⭐︎に変えております)

========================================

自分がみんな(限定的)と同じだと気づいた話

正直、自分は結構個性的だと思っていた。

でも、躁鬱界のなかではまるで凡人だったことがわかった。

 

というのも、坂口恭平著『躁鬱大学 気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』という本を読んだ。

 

この本では、著者がまず躁鬱と公言している。

そして10年もの間、個人の携帯番号を公開していて、鬱状態の人から電話をもらっては相談されている立場でもある。

 

この本の中では、躁鬱というのは人の分類なのだと。

 

そんな躁鬱人の(とくに鬱状態の時の)悩みに対し、「人は、人からどう見られているかだけを悩んでいる」と記されていた。

そのほかの悩みは存在しない、とまで言っているのはさすがに言い過ぎな気もするが、躁鬱人は極端なものいいをする、ということでここはスルーしよう。

 

「人は、人からどう見られているかだけを悩んでいる。」そんなこと、大いにある。

 

少し話は逸れるが、私が鬱々としているときに考えることはこうだ。

生活もままならない、社会の役にも立たない、こんな人生を送っていたってただのお荷物だ、生きていたってしょうがない、もう死ぬしかない、、、

あの人に面目がたたない。みんなに迷惑ばかりかけて、なんて最悪な生き方をしているんだろう、、、

 

これは私しか感じることのない独自の悩みだと思っていた。

分かってもらえるわけない、わたしだけがつらいと思っている悩み…。

しかし、本を読んでいたら、著者も同じようなことを書いていた。

相談電話をかけてくる人間、笑っちゃうくらい同じことを口走るらしい。

 

え?鬱でつらいときって、みんな同じこと考えちゃってるの?

 

ただ、誰も口に出して言おうとしないだけで、躁鬱人ってみんな似たような行動をとるらしい。

なーんだ、鬱の時って、いつも同じこと考えちゃうように、もともと脳にプログラミングされてるだけなのか。

 

なんだかストンと、力が抜けた気がした。

 

どうして自分だけが世界から不要な存在であると思い込んでしまうのか。

躁鬱になるという脳の構造のもとに生まれてきたからである。

鬱の時は万人がそうなるように決まりきっているのだ。

 

ちなみに躁の時は生まれてきてよかった、産んでくれた親ありがとう!みたいなマインドになるところまでセットでぴたりと言い当てられたから驚きであった。

鬱で私が生きることに意味を見出せないことも、躁で私が生きていなかったら世界は回らないなんて思うことも、全てが躁鬱人の特徴そのものであるだけだった。

 

私は躁鬱界の中の凡人である。

普通の人とはちょっと違うのかもしれないが、躁鬱の人からしたらベーシックな悩みをもった一般ピープルだ。

 

これがわかってからは、ちょっとだけ生きやすくなった。

自分だけじゃない、という慰めは好きじゃなかったけど、なんだかんだ自分が多数派に所属していると分かれば安心するものだ。

テンションMAXからズドンと下がることがあったとしても、ああまたなんか落ち込んできたな、これは脳の異常だから諦めよう。みたいなスルーが(前よりはちょこっとだけ)できるようになってきた。

それに伴って、夫に迷惑かけることも若干少なくなったんじゃないかと思う。心配はかけてしまうけれど。

 

本を読むことがこんな気づきになるなんて思わなかった。

というか鬱発症してから読める本が少なくなってしまったから、たまにこうして読める本があると大きな気付きに繋がるんだなとわかった。

また読書して心に残ったものがあればこうやって書き残そうと思う。

 

私は人とちょっと違うかもしれないけれど、そういう界隈においては凡人である。

 

ぼん‐じん【凡人】
読み方:ぼんじん

普通の人。ただの人。(weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%87%A1%E4%BA%BA )より

苗字が変わる

一般ピープルなら一生に一度あるかないかのイベントかもしれないが、私にとっては通算4度目のイベントになる。慣れたものだ。

 

これまで名前が変わるというのは、受動的なイベントだった。

こう名乗れと言われることもなく、なんとなく察して、その通り使うだけの簡単な作業だ。

 

だが今回は違う。

めっちゃ能動的だ。

相手の苗字を名乗ることを決めた。

過去のことがあるので、誰かと同じ苗字を名乗ることに対する特別感は人より少し薄いが。

 

それでも、苗字を変えられることは嬉しい。

夫婦別姓という言葉もあるけれど、わたしは元の苗字に何の愛着も未練もない。

もし名乗るとしたら元の苗字じゃなくて、一二三とか、そういう芸名みたいなものがいい。

 

もちろん相手の苗字と同じになれるという幸せもある。

もとより物でもなんでも、おそろいは結構好きだし。

 

これはネガティブな発想かもしれないが、元の苗字から逃げられるのは喜ばしいことだ。

元の苗字は割と珍しい方だ。

しかも地元で同じ苗字の人はほぼ全員親戚だ。

今ではもう忘れ去られているが、10年前までは同じ苗字の有名人もいたため、肩身が狭かった。

自己紹介をすれば、あの人と親戚なの?と聞かれるくらいには名の知れた人だった。

 

親や親戚はいまだに実家のことを名家だと思い込んでいるし、誇りに思っている。

わたしはそんな家に嫁いだ母親の連れ子だったので、名家だの誇りだの、一切なかった。

(今もない。)

連れ子ゆえ、親戚からの風当たりは強く、よくいびられていた。親戚含めみんな大嫌いだった。

母親は自分を守るので精一杯、父親も助けてはくれなかった。

 

地元にいるうちは、苗字が本当に足枷だった。

どこの家の子か、名前を見れば分かってしまうのだから。

すこしでも繋がりのある子は、わたしのことを好きに噂していた。

そういうことがあって、大学生のときに勝手に家を出た。

苗字イコール有名人の親戚、という呪縛から逃れ、肩の荷が降りたようだった。

 

就職も名前の知名度が由来するから、地元では自由にできないな、と判断して、県から出た。

県から出てしまえば、ただの珍しい苗字。

気が楽だった。

実家から離れたら、まるで夢を見てるみたいだった。

結局、実家に振り回されてしまったけれど。

 

忌まわしき苗字になってから13年経って、やっと元の苗字から解放される時がやってきた。

新しい苗字で、心機一転だ。

自分にできること、使える力はすべてパートナーとの未来のために使いたい。

 

パートナーとおそろいの名前、珍しくない名前、すごく気に入っている名前。

姓名判断は最悪だけど。

 

願わくば、もう苗字が変わることはありませんように。

勝手に断薬して後悔した話

精神疾患を持っている人へ。

医師の指示なく勝手に断薬すな。

 

今回は8/15くらいに勝手に断薬して今もなお後悔している話をかきます。

 

事の発端は薬の飲み忘れ。

今まで飲んでた薬は、飲み忘れると翌日朝には手足のふるえが止まらなくなる、離脱症状というやつに襲われていた。

 

ところが、薬が変わったので離脱症状が起こらなかったのである。

薬に効果を感じていなかったわたしは、これ飲んでても飲んでなくても一緒では?と思っていたし、

思うように減薬できてなかったこともあり、今がチャンスなのでは?と思ってしまった。

f:id:ringringnara:20220915170443j:image

断薬1日目〜4日目までは、ほぼなんともなかった。

ちょっと眠りにくくなったくらいで、平常時の精神状態もふつう、飲んでない状態も意外と余裕じゃん。と思っていた。

ところが。

 

5日目で朝起きれなくなった。

f:id:ringringnara:20220915170450j:image

 

f:id:ringringnara:20220915170459j:image

自罰的な、自己嫌悪のような発想がとめどなく脳内を駆け巡った。

ちょっとしたことが全て「最悪の行為をした」という後悔に変わり、自分で自分が嫌になった。

 

6日目もモヤモヤが続き、とくに嫌なこともないのに涙が溢れることがあった。

 

7日目はいよいよ生きている意味とは?自分を支えてくれる相手に、自分はふさわしいのか?と、めちゃくちゃ死にたくなってしまった。

8日目も変わらず。

メーテルママと電話していて、様子のおかしいわたしは、薬の再開を勧められた。

f:id:ringringnara:20220915170506j:image

 

今回の断薬のおそろしさは、自分がおかしくなっていることにほぼ気づけなかったことだ。

薬を飲んでないからじゃなくて、自分の行動が悪かったから病んでいるのだとばかり思っていたし。

 

ちなみに、服薬再開してハッピーエンドではない。

 

7日間断薬したことにより、ここ1ヶ月、薬の副作用に苦しんでいる。

吐き気、胃のむかつき、めまい…etc.

貧血で倒れる時のような全身の体調不良が襲ってくる毎日だった。

寝ると翌日には治っている気がして、もう起きているのもしんどくて、20時には無理やりにでも寝ようとしているくらいだった。

起きていても、いつしんどさが来るか分からないから、ビクビクしながら夜を過ごしていた。

 

服薬再開してから1ヶ月、やっとマシになってきた気がする。

マジで断薬しなければよかった。

 

しかも調べたら、突然の断薬は寛解を遠ざけるらしい。

知らんかったわけじゃないけど、離脱症状がつらくなくて、断薬できるんだ!と謎の自信を持ってしまったのが今回の敗因だ。

 

毎日服薬しなくちゃいけなくて、でも薬の効果を感じなくてしんどい思いをしている、わたしの仲間へ。

 

お医者さんと相談してじわじわ減薬するのは、本当に時間がかかることで、段階すっ飛ばしたくなると思う。

でも、突然断薬するのはマジで気づかないうちに心も体もボロボロになってしまうから、やめといた方がいい。やめなさいね。

その場で足踏みしてて、前に進まなくてイライラすることもあると思う。

でも、その場の足踏みが必要な段階もあるってことを、つらい思いしてわたしは学びました。

これを読んでる仲間は、わざわざつらい思いしないで。

とにかく、断薬すな。

 

わたしより。

 

f:id:ringringnara:20220915170425j:image

 

愛にできることはまだあるかい

プロポーズされて、大阪行きが決まった。

よく考えて決めたことだけど、報告をしたタイミング等かなり急ではある。

(このへんのことも後日書けたらいいなとは思っている。)

 

大阪に行くためのご挨拶に、お盆に親と会うことが決まった。

その前に、一度ひとりで帰ってきなさいと言われて、帰った。今回はその話です。

 

半年ぶりに会った母親は、髪を切ったり、仕事終わりで普段絶対着ない服を着ていたりして、全然目に入ってこなかった。

車から降りて迎えに来てくれていたのに、全然気づかなかったことがちょっとショックだった。

 

母親とわたしの関係は、悪くないと思う。

ただ、わたしが一方的に距離をとっていて、母親は子離れができていない、それだけだ。

わたしの現在は、わたしが決めて進んできた道だ。

そこに両親の離婚騒動やら親族のゴタゴタは直接的には関係していない。

と、思っていたのだけれど、どうやら違ったみたいだった。

心のどこかで、うつ病とか生活苦とか、生育環境が悪かったこととかを親族のせいにしてきたところがあるのかもしれない。

そんなことを思った。

実際自分で決めて歩んできた人生だから、人のせいなんてことは無いんだけど。

 

推定バツ2の祖母と、バツ2の母親がそばにいて、自分のうまくいかない恋愛なんかも加わって、長く続いていく関係なんてない、いつか終わりがくる。

いつのまにかそう思っていた。

 

帰省したものの朝から母親が仕事で家を出たので、祖母とふたりで一日を過ごした。

栃木は涼しかった。その日だけだったらしいが、吹いてくる風が涼しいのは田んぼやら自然やらに囲まれているからなのかな。

 

祖母の家はわたしが一緒に住んでいた高校時代のまま、時が止まっているようだった。

机のマットは高校生の時好きだったものがぎゅっと詰まっていた。

f:id:ringringnara:20220810161749j:image

 

朝からふたりで釜の蓋まんじゅうを作り、午後にはそれを配りに親戚の家を巡った。

f:id:ringringnara:20220810161809j:image

 

祖母とは結構気が合うので、色んなことを喋りながら出かけたり、昼食や夕食を一緒に作ったり、楽しく過ごした。

薄々感じていたけれど、わたしを溺愛してきた祖父とは血が繋がっていなかったことがハッキリと肯定された。

ただ、祖父のわたしへの溺愛っぷりは筋金入りだった。

血の繋がらない人間のことも、目に入れても痛くないほどに愛せる可能性がそこにあったのか、と今更になって実感した。

 

そしてわたしは何を思ったのか、昔の写真が見たくなって、祖母に昔のアルバムはあるか聞いてみた。

わたしが描いた絵や日記とともに、幼稚園のころまでのアルバムが大量に出てきた。

 

生まれた時は一重だったこと、おでこに赤いアザがあったこと、いろいろ話しながらアルバムをめくった。

途中で母親が帰ってきて、一緒に見ることになった。この時はどうだった、とか、エピソード付きで見た。

 

アルバムにある写真のどれもが、愛がなければ撮れないような写真だった。

うまく言えないけれど、そんな写真ばかりだった。

インスタントカメラなのに、よくこんなに素敵な瞬間が切り取れるなあと思えるほどに、たくさんの写真たちが残されていた。

もうこの世にはいない祖父に、若い頃の祖母と母親、みんなみんな、幼いわたしのことを見る目が優しかった。

これが愛じゃないなら、何を愛と言えるのか。

 

離婚しまくりの親族のことを見てきて、長く続く関係なんか、ないものだと思ってきた。

でも、アルバムの中には確かに愛が溢れていたし、目の前にいる母親と祖母は、不器用だけどいつだってわたしのことを優しい目で見てきた人達だった。

 

こんなに愛されて育ってきたこと、愛されて今ここにいること。

どんなことがあっても、途切れずに母親とも祖母とも関係が続いていること。

わたしの婚約を心から喜んでくれていること。

 

愛なんか存在しない、続かないと思ってきた。

でも、見えていなかっただけで、ずっとそばにあった。らしい。

 

愛されていなかったから、親族に嫌というほど振り回されてきたのだと思ってきた。

親族のせいで信じられなかった愛が、ちょっと重すぎるくらいに大きな愛となって突然目の前に現れて、正直混乱した。

 

散々振り回された。

結局振り回されたことは消えない。

それを今更謝られても、許せなかった。

 

なのに、今こうして愛を感じて、それらを許さなければならない気持ちになっている。

 

こんなにも愛されてきた、今も愛されているのに、わたしは何で足踏みをしているのか。

帰省から戻ってきて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。なんなら一日寝込んだ。

 

振り回されてきたことを許せない自分がいることが、自分で嫌になった。

 

許そうと思わなくていい、やられたことは無くならない、十分歩み寄ってる。と友達から言われて泣いた。

 

今の自分はまだ、親族に怒っていたいのかもしれない。

愛されてたのね!ありがとう!全て許すわ!と手放しで受け入れられるほど、私の中では時間が経っていない。

 

最悪ともいえる家庭環境で育ってきたから、その反骨心で生きてきたのに、急に骨抜きにされてしまった。

わたしを形作っていたものが揺らいで、今はどうしたらいいか分からない。

許せるほど環境も変わっていない、今は。

ないものとしてきた愛が過去にも現在にもにあったと分かって、一生縁のないものだと思っていた愛が形となって現れてきて。

 

愛ってなんだ。

婚約したけれど、愛が分かっていないわたしに人を愛すことができるのだろうか。

 

でも、確かに言えることは、いつかは親族を許したいし、わたしも人を愛せるようになりたい。

いままでは全部諦めていた。一生このままだと思ってた。

 

小さな頃のわたしを愛してくれる人が存在していた。

それだけは確かだった。

 

いつになるかは分からないけど、許すことも、愛すことも、諦めたくない。

 

そんなことを思った、帰省だった。